SHO-SENSEI!!がニュー・シングル「ナントカ流星群」を2023年7月12日にリリースした。
“ヒップホップとロックの融合”というありふれた表現では表しきれない、確固たる世界観とオリジナリティを有した音楽性を展開しているSHO-SENSEI!!。特に、2022年にリリースした2作のアルバム『THE BLUES』『THE TELESCOPE』以降はさらにその強度が増している。
また、情景描写が豊かなリリックとそこに込められた生々しい感情はユース層を中心に共感を呼び、SNSでのバイラル・ヒットに加え、ライブもソールドアウトが続出。ネット/リアル共に着実に支持を拡大させている。
今回はそんなSHO-SENSEI!!の現在地を探るべくインタビューを敢行。これまでの足取りを振り返りながら、今年連続でリリースしているシングル群の制作背景、そして彼が思い描く今後のヴィジョンについて語ってもらった。
ーまずは音楽的なルーツからお聞きしたいと思います。なんでもヒップホップとの出会いは小学校のときに観た映画『ドラムライン』(2002年)がきっかけだったとか。
そうです。小学校5〜6年生のとき、担任の先生が授業で観せてくれて。映画の内容も素晴らしかったんですけど、何よりも音楽に喰らってしまって。先生にサントラのCDを借してもらったことが、ヒップホップの原体験ですね。
ー『ドラムライン』の音楽から受けた衝撃って、どのような感覚だったか覚えていますか?
主にドラムやビートといったリズムの面が衝撃的だったんだと思います。親がかけてた音楽だったり、テレビとかから聴こえてくる音楽とあまりにも違っていたんですよね。『ドラムライン』を観てからは車で毎回そのサントラをかけてもらって、父が疲れてきたらサザンオールスターズに変えられる、みたいな感じでした(笑)。
ー『ドラムライン』のサントラに出会って以降はどのようにヒップホップをディグっていきましたか?
まだ似たような音楽のディグり方もわからなかったので、とりあえず他の映画のサントラを聴いてみようと思って、次は『バッドボーイズ2バッド』(2003年)という映画のサントラを借りました。Jay-Z(ジェイ・Z)やNelly(ネリー)とかが参加していて、これもめっちゃ聴いてました。
中学に入ってからは、友だちにBon Jovi(ボン・ジョヴィ)やAvril Lavigne(アヴリル・ラヴィーン)を教えてもらって、とりあえず洋楽をもっと知りたいなと思ったので、ビルボード・チャートを見るようになりました。そこで知ったLil Wayne(リル・ウェイン)や初期のNicki Minaj(ニッキー・ミナージュ)、J. Cole(J. コール)などに惹かれたんですけど、CDはなかったのでYouTubeで聴いてましたね。そこで小学校のときに聴いてた音楽と繋がったというか。「これがヒップホップなのか」ってなりました。
ーなるほど。
それからは本格的に音楽が好きになって、お年玉やお小遣いを貯めてiPod touchを買ってからは世界が広がりましたね。YouTubeも自由に観れるようになったし、DatPiffやAudiomackでミックステープを聴き漁ってました。
ーネットに触れ、膨大な音楽にアクセスできるようになったわけですが、その中でもなぜヒップホップに惹かれたんだと思いますか?
もちろんサウンド面も大きかったんですけど、学生時代はあまり友だちもいなくて。どっちかというと馴染めないタイプだったんです。中学の終わり〜高校くらいのとき、久々のアルバム(『The Marshall Mathers LP2』)を出すタイミングでEminem(エミネム)にハマって。『8 Mile』(2002年)を観たり翻訳されてる記事を読んだりして、ヒップホップ・カルチャー全体に惹かれるようになっていきました。
その当時、自分は流行りのJ-POPに全然共感できなかったし嫌悪感まで抱いていたんですけど、それに比べて海外のヒップホップのリリックはリアルに響いたんです。別に僕はドラッグをやったり危険な目に遭ったりしてないけど、彼らの日常を綴ったであろうリリックには生々しさがあった。何かよくわからないけどそれが「いいなぁ」って。
ー高校時代には友人と音楽を作り始めたそうですね。
それ以前から、自分が歌うために好きなヒップホップのリリックを空耳で書き出してたんです。もちろん英語はわからないから、カタカナで適当に書き起こしていて。それと同時に、小さい頃から本も好きで小説を書いていたので、その2つが自然と繋がっていきました。空耳から自分の言葉になり、リリックを書くようになって。
高校に入ってからはDJをやってた友だちに「一緒に音楽やろうよ」と言われたので、「じゃあ俺はラップするわ」っていう感じでユニットを組みました。ただ、そいつは中間テストのタイミングで辞めちゃったんですけど(笑)。それからひとりで音楽を作り始めました。
ー本や小説を好きになったのは、何かきっかけなどはあったんですか?
父の影響ですね。「これ読んでみれば?」って提案してくれるんですけど、そのセレクトが絶妙で。当時の自分では手を出さないけど、ギリギリ理解できるっていうラインを常に更新する感じ。毎回「難しそうだな…」って最初は思うんですけど、読んでみたら「めっちゃおもろい…」みたいな。
ー素晴らしいお父さんですね。特に記憶に残っている本や作家を挙げてもらえますか?
好きな作家を見つけるとその人の作品ばかり読んでしまう傾向があって、重松清、星新一、笹生陽子、椎名誠、あとはStephen King(スティーブン・キング)はめっちゃ読んでましたね。本当にジャンルはバラバラなんですけど(笑)。ただ、今の自分に特に影響を与えているのは重松清と星新一だと思います。
ー重松清と星新一のどのような点に惹かれましたか?
重松清の『くちぶえ番長』をたしか小学生くらいのときに読んで、ガチで刺さりました。重松清は直接的な感情表現をしない気がしていて、例えば「悲しい」という直接的な言葉を使わずに、情景や空気感などを描写することでそれを伝える。それは今の自分の美学みたいなものに繋がっているような気がします。
星新一はシンプルに話がおもしろくて。初めて読んだのは『未来いそっぷ』っていう短編集だったと思います。めっちゃ深いことを子供でもわかるように簡単な物語で表現しているんだって感じて。それからは文章の裏にある意図を探すような感覚で読むようになりました。
ー話を音楽に戻しまして。ひとりで音楽を作り始めたとき、ビートはどうしてたんですか?
自分で作ったりもしてましたが、基本的にはネットで落としたトラックを使っていました。当時、ビート・ジャックが流行っていたので、有名な曲のインストにラップを乗っけてミックステープを作ったり。その頃は1日1曲作ることを自分に課していて、SoundCloudで公開したり、ミックステープも4作リリースしました。ミックスとかは何もわからなかったんで、トラックにラップを乗っけて、そのまま公開する。高校を卒業するまでは毎日1曲作ってましたね。
同時にMCバトルにも出たり、『高校生RAP選手権』にもエントリーしたりしました。ただ、どうしても自分はサイファーが好きになれず、バトルもクソ弱くて(笑)。
ーその頃はどのようなリリックを書いていましたか?
さっき話した“直接的な感情表現をしない”っていうことに囚われていましたね。わけがわからない物語を作って、《森を抜けて》とか《靴紐が解けた》っていう感じの情景描写が多かったです。
ーそのスタイルが変わっていったのって、どれくらいからだと思いますか?
毎日作ってたときはやっぱり無理してる部分もあって、同じような言葉を使いまわしてたし、曲として成立してればいいやっていう感じだった。でも、ずっと作り続けていくなかで、どんどんクオリティを上げたいし、自分の心が揺さぶられるような曲を作りたいって思ってきて。だったら、自分が見聞きしたことを書いたほうが説得力が出るよなって。意識したわけではないですけど、そういう自然な流れだったのかなと。
ー当時の曲作りにおける原動力は、やはり「楽しい」という一点に尽きますか?
うーん…楽しかったのは間違いないんですけど、たぶん逃避的な感覚もあったと思います。学校に居場所もないし、友だちもいない、でも夢はある。周りから嫌なことを言われるほど、それが音楽を作るエネルギーになったというか。
ー高校卒業後、カナダへ留学したことも大きなターニング・ポイントですよね。特に印象に残った出来事はありますか?
『ジャパン・フェスティバル・カナダ』っていうお祭りがあったんですけど、そのとき日本のアイドル・グループで活動していた女の子とたまたま出会って。その子が「フェスに出たいけど、グループの曲は歌えない」って言ってたので、「じゃあ俺が作ってあげるよ」って大口を叩いてしまったんです。でも、いざ取り掛かってみたら全然上手く作れなくて。
自分はその子のことをちょっと舐めてたんだと思います。曲を作って聴いてもらったらめちゃくちゃにダメ出しされて、完全にその子のほうがプロ意識が高かったんです。「本当に音楽やりたいの?」「あなたにとって成功って何?」って厳しく詰められたりもして、それに対して何も言い返せなかった。そこで自分は今までめちゃくちゃ強がってたんだっていうことに気づいたんです。自分で自分のことを騙して、虚勢で固めた鎧を身に纏っていた。そのときはめちゃくちゃキツかったです。もう音楽も辞めて日本に帰ろうと思ったくらい。
ーそこからどうやって立ち直ったのでしょうか。
その2週間後にはステージが決まってて、曲を完成させなければいけなかったんですけど、とにかくもう一度音楽を作れる状態になりたいと思って、いつもとは違うことをしました。遠くに散歩しに行ったり、めっちゃ貧乏だったのにひとりで外食しに行ったり。そうこうしてるうちに、「こんなことしてる暇があったら音楽作ったほうがよくない?」「音楽を作るのに理由なんていらないだろ」って思うようになって、無心でもう一度取り組みました。そこからは音楽を作ることが人生の最大のモチベーションになって、(音楽を)辞めるっていう選択もなくなりましたね。
ーその辺りからShotaro名義として、本格的にラッパーとして活動し始めるんですよね。
カナダ留学の後半くらいから、Shotaro名義でSoundCloudに音源を上げたり、ライブをするようになりました。見よう見まねですけどミックスもこだわって、1曲ずつじっくりと時間を掛けて作るようになって。
“SHO-SENSEI!!”っていう名義自体はカナダにいるときから思いついていたんですけど、“SENSEI(先生)”って名乗るのが恐れ多くて。Shotaro名義で人気が出てきてから変えようと思って東京に出てきたんですけど、しばらくしたら「売れるって何?」って思うようになって、マジで何でもないタイミングでいきなり変えました(笑)。それが『ラップスタア誕生』に出た半年後くらいの話ですね。
ーSHO-SENSEI!!に変わった頃はバンガーなトラップを軸としていたと思うのですが、そこから緩やかな流れでロックのテイストを取り入れ始めますよね。その変化の時期はどのようなことを考えていましたか?
何よりも10pmと出会ったことが大きくて。彼と一緒に作るようになって、音楽の話もたくさんするなかで、お互いにロックに傾倒し始めたんです。ちょうどその頃、10pmが尊敬する海外のプロデューサーも自分のビートにギターを取り入れたりして、10pm自身もギターやベースを弾き始めたり。僕もそういったサウンドが好きだったので、すごく自然な形で自分のスタイルに組み込んでいきました。
ーロック・サイドのルーツとして、忌野清志郎や尾崎豊を挙げていますよね。そういった音楽を意識的に聴くようになったのもその時期ですか?
清志郎は父が昔かけていて、「いいな」とは思っていました。でも、熱心に聴き始めたのはハタチ越えてからですね。後輩に「尾崎豊いいですよ」っておすすめしてもらったことをきっかけに、日本の古いロックを聴くようになって、忌野清志郎も改めてディグるようになりました。あとは(後にTHE DAYDREAM BELIEVERというユニットを共に結成する)AMBRとの出会いも大きかったですね。
ー時代もサウンドも大きく異なるアーティストたちの作品は、当時のSHO-SENSEI!!にはどのように響いたのでしょうか?
これも自分の勝手な解釈なんですけど、マインドは似てるなって思ったんです。中学生のときに海外のラッパーに衝撃を受けたのと同じように、尾崎豊や忌野清志郎、THE BLUE HEARTSなどの作品は自分のなかの葛藤や戦いを歌っているように感じたし、その人たちにしか出せないオリジナルな世界観がある。そこに強く惹かれました。
ー昨年リリースした2作のアルバム『THE BLUES』『THE TELESCOPE』は今のSHO-SENSEI!!の世界観、アーティスト像をより強固にした作品だと思います。そして今年に入ってからはシングルのリリースが続いていますが、個人的に「where u at」だけ少し異なるムードを感じました。
4月から大きく動いていこうっていうことを決めて、その直前にふと冷静になったんですよね。戦地に向かうトラックに乗ってるのに、ボーっと遠くを眺めてる、みたいな。それはやる気がないんじゃなくて、本気で戦う準備はできてるけど、今は別のことを考えていたいっていうか。そのとき作ったのが「where u at」で、過去を振り返るような曲になりました。実は「だから一枚だけ盗んだ」とか「道路工事」のほうを先に作ってたんですけど、このムードが変わらないうちにリリースしたくて、先に発表しました。
ー『THE BLUES』リリース後に発表された「Thunder」もそんな感じの曲でしたよね。
たしかに。リリースの経緯としてはめっちゃ似てますね。
ーその一方で、「だから一枚だけ盗んだ」「道路工事」「ナントカ流星群」の3曲は、大切な人との別れや、それに際したセンチメンタルなムードが感じられます。
僕はプライベートな出来事が曲に反映されやすいタイプなので、そういった出来事があった時期に爆産された曲たちが、今リリースされているっていう感じです(笑)。ただ、「道路工事」はフックの《夜の道路工事で外がうるさいのに 眠れてる君は疲れてるよ》が軸で、その人と一緒にいたときに書いたリリックを切り貼りしているような感覚なんです。だから、楽しかったシーンや幸せな記憶も込められているというか。
ーなるほど。リリックについて、以前のインタビューではそろそろ違うスタイルを見つけたいし、そうする必要性があると思う、というようなことをおっしゃっていました。『THE TELESCOPE』以降、作詞の面で変化は起きましたか?
最近はあまりストックしていなくて、フリースタイル的に書くことが増えた気がします。あと、元々“SHO-SENSEI!!”という名前は自分の2面性を出したいなと思ってつけたんですけど、振り返ってみるとここ最近はSHO-SENSEI!!の面ばかり出していた気がしていて。今はShotaroの側面をもっと出したい気分なんです。
ー噛み砕いてしまえば、よりパーソナルな側面というか。
パーソナルだし、逆に一番ヒップホップ的とも言えるかもしれません。情景描写とかも気にせず、自分が何を思い、何を感じているのかっていうことを大事にしたい。
ーそれってSHO-SENSEI!!のアーティスト像が変化した、という感覚とは違うんですか?
違うんですよね…。新しい視点が増えたような感覚なんです。いつかはまたひとつになる気がするので、今はこの2軸で、どちらも成長させたいなと。
ーサウンド面はいかがでしょう? 個人的には緩急の付け方や、多彩なグルーヴを獲得したように思いました。
10pmとコミュニケーションを重ねていくなかで、個人的には洗練されてきたなと感じています。この曲には何が必要で、何が不要か昔よりも明確にわかるようになってきたというか。以前はリファレンスとなる曲を探して、いろいろなことを試したりもしたんですけど、今はどんどん引き算することが多くなりましたね。
ー『THE TELESCOPE』のときも感じましたが、「道路工事」や「ナントカ流星群」ではそれ以上にドラムの生感が強くなっているような気がします。
バンド・セットでライブをやって、改めて「ドラムって超カッコいいな」って思って。ヒップホップに最初に出会ったときもドラムというかビートに衝撃を受けたので、そこは常に大事にしたいんですよね。ライブでも今はDJセットと生ドラムという形でやっていて、生ドラムでヒップホップのグルーヴを出すっていうことについては今も研究中です。あと、実は「道路工事」のドラムは生で録っています。
ーそうなんですね。
イメージ的にはイントロからBPM140くらいのトラップを聴いてる感じでノッてほしいんですけど、そこからめっちゃバンド・サウンドの生ドラムが入ってくるという。そういう違和感が好きで作ったんです。ヒップホップが好きな友だちに聴かせると、みんな最初から最後まで一定のリズムで首を揺らすんですけど、僕的にはこのノリ方をもっと多くの人にわかってもらいたくて。そのためには何が必要なのかっていうことを考えています。
ー新曲の「ナントカ流星群」も、まさにロック的なサウンド・デザインや展開を取り入れながらも、ヒップホップのノリが同居した曲ですよね。リリックは先ほども話に出た通り別れを想起させるものですが、この曲がどのようにして生まれたのか教えてもらえますか?
別に病んでるわけでも、感傷に浸っていたわけでもなく、「とにかく曲を作らなきゃ」っていうロボット状態だったんです(笑)。自分が何を考えているか知りたくて、そのときは無心で曲を作っていて。「ナントカ流星群」はたしか10pmからもらったギターの短いループを元に、歌詞や展開を膨らませていきました。
ーそうやって無心で自分と向き合った結果、改めて気づいたことなどはありましたか?
意外と傷ついてるんだなとも思ったし、逆に意外と気にしてないんだなとも思ったりして、どこまでいってもゴチャゴチャしていて、自分のことって全然わからないんだなってことに気づきました(笑)。
ー音楽を作り始めた頃は逃避という意味合いも大きかったとおっしゃっていましたが、そこから“音楽を作ること”自体が目的になった。その感覚は今も変わらずですか?
うーん…音楽を作ることが当たり前っていう状態は変わらずなんですけど、曲を作ってみんなに聴いてもらって、そこからどうなるかっていうことをよく考えていて。自分が思い描く姿や景色のために、音楽を作るようになったって言えるかもしれません。
ーその思い描く姿、景色というのは?
到達点とかそういう話ではなくて、例えば「道路工事」をライブで披露したときに、誰もが当たり前に首を振ってくれるようになったり。たぶん、今の僕はヒップホップとして見られてないと思うんですけど、僕としてはラップ、ヒップホップの延長線上でやってきていて、これが自分のフロウ/スタイルなんです。それをこうやって口にしなくても感じ取ってくれる。それが理想ですね。
ーじゃあ、めっちゃヒップホップのことを考えてるんですね。
考えてるかもしれないです。最近、友だちとかと話してたんですけど、ヒップホップの一番大事なことは、“フッドに還すこと”だって言うんです。でも、フッドっていうのは地元じゃなくてもいい。音楽そのものがフッドかもしれないし、ヒップホップっていうカルチャーがフッドなのかもしれない。自分が恩恵を受けたものに還元して、次に繋げる。そういったことを最近意識しています。
ーでは、SHO-SENSEI!!にとってのフッドとは?
最近そればっかり考えて、ぶっちゃけ曲を作ってないです(笑)。地元じゃないし、音楽そのものがフッドっていうのも何か違う気がする…“探す”のではなく理解して、ちゃんと言語化できるように考えています。
ー世界中でもそうですが、特に国内でのヒップホップを取り巻く環境はここ数年でガラッと変わったと思います。SHO-SENSEI!!にとっての理想の景色というのは、シーンにおいてもっと多様性が認められる状態になることなのかなと思ったのですが、いかがでしょうか?
どちらかというともっと自分勝手な感じです。全体を意識して、自分の立ち位置を考えるのではなくて、「俺が思うヒップホップをわからせたい」っていう気持ち。全部に言えることだと思うんですけど、クラスの女の子にモテたいって考えたときに、今クラスでモテてるやつがマッチョだから自分もマッチョになろうって考えるのではなく、自分に向き合って好きなことをやり続けているほうがモテるだろっていう(笑)。そうやってそれぞれが好き勝手なことをやり続けた結果、多様性が生まれてくるんじゃないかなって思うんです。
ーめちゃくちゃ共感すると同時に、自分に向き合うこと、そして自分がやりたいことを見つけるのってなかなか難しいことなんじゃないかなとも思いました。特に若い頃だったらなおさら。自分がやりたいこと、自分が信じる道が見つからない人たちへメッセージを送るとしたら、どういった言葉を投げかけますか?
いろいろなことをやってみるのがいいと思います。僕は他人のスタイルを真似するのが合わなかっただけで、それが心の底から好きで、自分に合うんだったらそうすればいい。みんながみんな新しいことをやるべきだとは思ってないです。大事なのは、自分に合う/合わないを見極めること。そして自分を偽らないことだと思います。
ー素晴らしいメッセージだと思います。今後は4都市を回るツアーが控えていますが、その意気込みをお聞かせください。
今までは上手く歌えるかなとか、自分のパフォーマンスのことばかり考えていたんですけど、今回からはさっきお話したように、自分が思う理想のノリ方、楽しみ方をしてもらえるよう、いろいろ工夫しようかなと。そうやって各地でSHO-SENSEI!!コミュニティを作っていきたいです。
ー今のSHO-SENSEI!!の活動において、“ライブ”はどのような立ち位置ですか?
前までは曲作りに一番の重きを置いていたんですけど、最近はライブもそれとほぼ同じくらい重要に感じてきています。これは積極的にライブをするようになって感じたことなんですけど、SNSとは違って、実際にみんなの前に立って、目を見て言葉を投げかけることができる。自分の思いやメッセージを伝えるには一番の機会だなって思うようになりました。
ー最後に、SHO-SENSEI!!というアーティストのゴールがあれば教えてもらえますか?
自分の活動を通して、みんながもっと自分勝手になってくれればいいなって思います。それぞれが自分の意見を提案し合って、対立するのではなくお互いを尊重する。そういう世の中になったら最高だし、それを後押しできるようなアーティストになりたいですね。
RELEASE INFORMATION
LIVE INFORMATION
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SHO-SENSEI!! LIVE TOUR 2023
2023年7月7日(金) 名古屋 ell Fits all
2023年7月8日(土) 大阪 梅田シャングリラ
2023年7月17日(月・祝)福岡 The Voodoo Lounge
2023年7月22日(土)新宿 LOFT※全公演SOLD OUT
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