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文: Yuki Lee 編:久野麻衣
Mondo Gascaro(モンド・ガスカロ)氏はユニークな存在だ。確実に存在感を高めつつある、新たな文化生産国・インドネシア。その音楽シーンの重要人物として活躍する氏の功績は大きい。
まず当時中心メンバーとして活動していたSORE(ソレ)が2007年にRolling Stone Indonesiaでの「インドネシア史上ベストアルバム150」の40位にアルバム『Centraslismo』がインディバンドとして異例ながら選出され、インドネシアでのインディシーンがメインストリームに食い込むきっかけを作ったこと。
そして、日本人を母に持ち、あわせて10代をLAで過ごしたと言う国際色豊かなバックグラウンドから、帰国時の90年代インドネシアにはそれまで見られなかった色彩豊かなアレンジ技法を持ち込んだこと。
その繊細で緻密なアレンジ技法が評価され、現在では数々のヒット映画の音楽を作曲もする多才なアーティストであるモンド・ガスカロ。そんな静かな巨人の素顔、そして彼の音楽を織り成してきた背景に迫るため、インタビューを実施した。
ーパンデミックが本格化してから、いかがお過ごしでしたか?
インドネシアでは3月頭に初の陽性者が出てから、急激に状況が変わっていきました。音楽シーンの話をするとリアルなライブをやることが不可能となってしまったため、多くのミュージュシャンがインスタグラムやYouTubeを使ってリモートでのライブをするようになりましたね。
私も何度かやってみたのですが、その内の一つはインドネシアで非常に注目されているシンガーソングライターであるDanillaとの収録動画を使ったリモートライブでした。通信会社がスポンサーをしてくれたものなのですが、Danillaと私が共同で作った曲をやりつつ、私の楽曲である「Butiran Angin」をDanillaが、Danillaの楽曲である「Ada Di Sana」を私がカバーしたりしました。
演奏以外にも、私は現在の状況や国内外の時事に関してのトークセッションをやりましたね。
このような状況は人をクリエイティブにさせて、普段だったら出来なかったことをやり始めるようにさせるなと思います。中にはリモートで料理ショーをやるようなミュージシャンもいましたよ。家の同じ部屋で同じ構図でライブ演奏をしても、すぐに飽きてしまうからかも知れません。
それ以外には、まだ私はたくさんやることがありますね。映画をみたり、子供と遊んだり、勉強を見てあげたり。家から授業を受けさせるのはかなり大変ですよ(笑)!
ー新しい試みが行われているんですね。ジャカルタでの人々の生活はいかがですか?
インドネシアでのパンデミックは、まだまだ本当にクレイジーな状態です。人々は“New Normal”と言う言葉を使っていますが、ノーマルな要素なんて全然ありません(笑)。
これは私の妻であるサラがよく言っていたことなのですが、パンデミックの前のジャカルタでは、みんな文句ばかり言っていました。忙しくて家族に会う時間が無いだとか、ジャカルタの渋滞は本当にひどいのですが、毎日毎日渋滞に苦しまなければいけないだとかですね。
でも特にパンデミック直後はみんな家で過ごしていましたね。みんな24時間ずっと家族と会っていて、何をすればいいか分からないくらい時間があったので、みんなの願いが叶ったようでしたよ。
私が見る分に、これは私たちにとって歴史的な瞬間です。私たちから後の世代はもちろん、前の世代でも、こんな状況に陥ることはなかったでしょう。100年の間でもないかも知れません。まるで私たちが選ばれた世代のようです。
実際のところ、私は元からいつでも家が好きな人間なので、家でたくさんのことをして過ごすことは快適だったりします。ただ、パンデミック直後のように、家で全てをやらないといけないのは簡単なことではありませんでした。例えば家族みんなが家にいる時ですが、それぞれのスピードや時間感覚は同じではないですからね。
でも、私たちは感謝することを覚え始めていると思います。できる限りのことをしようとしています。もっと多くのことができるよう学んでいます。私と妻は子供と過ごしたり、仕事をするようこなしています。
ー最近のリリースに関してお聞かせいただけますか?
今年はシングルをいくつか出していますね。一番新しい楽曲のリリースは、8月17日のインドネシアの独立記念日をお祝いするためにシングルをちょうど出したところです。
そのシングルは「Kucinta Indonesia (英訳: I Love Indonesia)」と言う曲で、2011年に『Halo Aci!』と言うコンピレーションアルバムCDに収録されていて、デジタルでまだリリースされたことのないものなんです。このコンピは、インドネシアのクリエイティブコミュニティのお祝いのためのものでCDにて無料で配布されたものでした。
そして今年は意欲的にリミックス曲をリリースしています。最近のだと2016年リリースの1stアルバム『Rajakelana』収録の楽曲である「Naked」のリミックスでした。バンドンの電子ポップデュオであるBottlesmokerによるリミックスですね。合わせて、同じく1stアルバムに収録されている「Dan Bila」のPablo Cikasoによる80年代風リミックスも少し前にリリースをしていますね。今年は更にまた2曲のリミックスを出す予定です。
そして、もう一つの計画、と言うか願望ですが、セカンドアルバムのプリプロダクションを年末までに始めようと思っています。
ー意欲的に活動をされているんですね。新作が今から楽しみです。多くの日本のファンがモンドさんの音楽に興味はあれど、断片的な情報しか知れていない状態で、一体モンドさんはどんな人なんだろう?と質問を受けることが多くあります。今回は個人的なバックグラウンドを聞かせてもらえますか?
まず私はジャカルタで生まれましたが、父はインドネシア人ですが母は日本人でした。弟と妹がおり、妹のMayumiはイラストレーターとしても活躍し、私のアルバムやシングルのジャケットを作ってくれたこともあります。
父は60年代にCekingsと言う名前のバンドをやっていたミュージシャンでもあったのですが、日本には留学に来ており、1967年に母と会いました。父はその頃カフェやバーで友達と演奏していました。
そして母と一緒にインドネシアに戻った後、インドネシアでは初めてとなる日本式のカラオケバーを、ジャカルタのリトル東京であるBlok Mに出したんです。当時は日本の店舗自体全くなかったのでパイオニアだったんですよ。
実は、映画『座頭市』で有名な超大物俳優である勝新太郎さんがよく来ていたんです。母はよく勝さんをギャンブルのため、ジャカルタの街に案内しに行っていました(笑)。
ーすごい。それこそ、この頃にインドネシアと関わりのある日本人だとスカルノ初代大統領の第三夫人であるデヴィ夫人が有名ですが、当時のインドネシアでは外国文化を手に入れるのは大変だったのではと思います。その中で海外経験があるお父様が日本の音楽をそのまま持ってこれる環境で育ったのですね。
そうなんです。そのおかげで私はライブバンドによる演奏とカラオケを毎日見て育ちました。幼少の時の記憶です。80年代前半でしたね。
それ以外の音楽のことを話すと、私の父方の祖母はピアノをやっていて、インドネシアの歌謡曲をよく弾いていましたね。祖母はピアノの先生を私のために雇おうとしいたのですが、とても怖い人で…私は逃げてしまいました。
ー音楽に囲まれた幼少期があったのですね。日本の音楽からの影響はまた後ほどお聞き出来たらと思いますが、その頃はご実家のお店以外ではどんな音楽を聞いていましたか?
The Beatles(ビートルズ)ですね。小学校の時に聴き始めたのですが、最初はサージェント・ペパーズ(『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』)でした。カセットテープだったのですが、とてもカラフルだったのを覚えています。自分自身の手で買った初めてのアルバムです。それに加えて、いとこが更に音楽の歴史なども教えてくれ、もっと音楽全般に興味を持つようになりました。
そこからLed Zeppelin、Cream、Queen、Bee Gees、The Beach Boysなどをどんどん聞いていきました。
そして1990年にLAに移り住んだんです。当時は中学生くらいの頃でもっと音楽を聴くようになり、CDやラジオでロックもジャズもたくさん聞いていました。重要な時期でした。でも人前で演奏はしたことなかったです。ちょっと楽器のコードを家で弾くくらいでしたね。
ーインドネシアの外でたくさんの音楽を吸収されていたのですね。作曲はいつから始められたのでしょうか?
10代の時はいつだって曲を作れたらと想像していたのですが、LAに移ってからしばらくはやったことはありませんでした。その頃はハミングしたりギターを爪弾いたりするくらいで、思いを自分の中で留めていたのですが、1992年に初めて曲を作ります。SOREの曲になった「Karolina」ですね。
その後LAの音楽学校に行くことを決意し、そこで音楽理論や作曲技法を学びます。その時はずっと、どうやったらその理論や厳しいルールたちを実際の音楽に使えるだろうか?と思っていましたね。
ジャカルタに戻った後も、学習を更に続けました。理論書を読んだりアレンジをしたり、MIDI Programmingをしたり、そして手作業でMidiからスコアに起こしたりと、どう編曲をするかを学んでいきました。
そして同じくLAで学生時代を共に過ごした、SOREのBa & VoであるAwanとバンドンに行き、そこでビートルズのトリビュートアルバムを作りました。90年代後半でしたね。
そして2000年にジャカルタに戻ってからSOREを始めることになりました。何か曲をアレンジしよう、録音しようという話になったんです。
ーSOREの曲でお勧めしたい曲はありますか?
私が書いた曲の「Karolina」ですね。『Ports of Lima』と言う、想像上の映画サウンドトラックとして作ったアルバムに収録されています。
ーその後SOREは非常に成功しましたが、なぜSOREをやめようと思ったのでしょうか?そしてなぜ自分の音楽をされようと思ったのでしょうか?
SORE…その時は、もう時がきたのかなと思いました。
政治的なものが増えてきて、音楽をするにあたって生産的でないことが増えてしまいました。まぁ、バンドで人気が出てくるとよくあることだと思います。
利己的な雰囲気がバンドを支配するようになり、あまり建設的でない状態が続きました。
ソロプロジェクトを始めたことに関しては、実はSOREで起きたことと関係はありません。SOREにいた頃からも映画音楽の作曲やプロデューサー職などもすでにやっていました。
2012年にSOREを去った後に、私の妻と一緒に〈Ivy League Music〉と言うレーベルを立ち上げました。最初にやったのは、今でこそ国民的なバンドとなったPayung Teduhの2ndアルバム『Dunia Batas』のプロデュースですね。その次はAyushitaと言う有名なシンガー/女優の『Morning Sugar』というアルバムをプロデュースしました。
そして2014年に私のソロプロジェクトを再開しました。そこから2017年の1stアルバムである『Rajakelana』リリースまでまだまだありますね。
当時は、よし自分のプロジェクトをやるぞ!と意気込んでいた頃です。ソロでもバンドでも、どんな形にもなりえる状態でしたね。
ーSORE以降、初めてソロアーティストとして認識されるようになったのは、初のフルアルバムである『Rajakelana』の前にリリースされたシングル「Saturday Light」と「Komorebi」でしたよね。リリースされたアナログ版も瞬時に完売などされていましたが、この2曲のコンセプトは?
『Rajakelana』は映画音楽的なアプローチを使ったのですが、このシングル2曲に関してはアルバム制作前に、自由なフロウで作ってみたんです。「Saturday Light」ではポジティブでグルーヴィーなものが作りたく、同時に、クールなものにしたくて。
実は、この曲は私と妻がかつて行ったことのある場所について歌っているんです。ジャワ島のある小さなビーチの小高い丘のことなのですが、私にとってこの曲は、愛することと自由でいるという純粋さについてなんです。
ちなみに、2曲目である「Komorebi」は日本語の“木漏れ日”という美しい言葉から名付けました。実はこれ、私の第一子である息子のミドルネームでもあるんです。私の母がかつてよく、日々世界で太陽がまだ昇る間は決して夢や希望を諦めてはいけないよ、と言っていたのですが、この曲では同じように、私が息子に願っているポジティブさをシェアできたらと思いました。
曲の作り方に話を戻すと、壮大なものを作るのに疲れてきたのがあり、シンプルにしたく、伝統的なシンガーソングライターの作曲手法を使おうと思ったんです。SOREにおいて私はソングライターを主にやっていた訳ではなく、どちらかというとアレンジが主だったこともあり、その分シンプルな作り方をやってみたくて、この2曲に関しては曲作りにフォーカスしました。そしてアレンジ手法に関してはとてもストレートなものだと思います。
ーその手法は『Rajakelana』にも繋がるのですか?シンプルにしたかったのが2曲ですよね。ここからの変化はあったのでしょうか?
フルアルバムではもっとこのやり方で探検ができると思い、続けてソングライティングにフォーカスをしてみました。私のソロですからね!もっと曲を書きたくて、そして同時に私の映画音楽的な側面をもっと探求していけるような楽器的な曲も作りたかったんです。伝統的なシンガーソングライターと映画音楽の手法のミックスがコンセプトですね。これが私の頭の中にあったものでした。
ー多くのファンが気にしていると思うのですが、モンドさんの作品はとても映画音楽的で、実際映画音楽を多く手掛けられているとお聞きしています。映画音楽を始められた経緯などお聞きできますか?
2006年からですね。SOREの1stアルバムである『Centralismo』の後ですね。
きっかけとなったのはその1stの頃、『Janji Joni』という映画のサウンドトラックにSOREの曲を載せないかという話がありました。
Joko Anwarと言う、今では国内外での数々の受賞歴のある映画監督の初期のインディ映画だったのですが、ジャカルタのインディバンドが曲を提供する形でサウンドトラックを作ったんです。インドネシアのインディシーンで最も商業的に成功をしたバンドの一つであるWhite Shoes & The Couples Companyなどが採用され、SOREも一曲「Funk the Hole」という曲を提供しました。
その後、その製作会社がまた別の映画のためにコンタクトをしてきました。『Berbagi Suami (英題: Love for Share) 』と言う映画のためで、彼らがスコア作曲のために2000年代中盤のインドネシアのインディシーンを形作ってきたインディレーベルである〈Aksara Records〉のA&RであるDavid Tariganにコンタクトしたのが始まりです。そこからDavidが私と私の仲間に映画音楽の作曲の依頼してきたんです。私にとって、それが初めての映画音楽作曲となる依頼でした。
ーどのように感じられましたか?
まるで夢がかなったかのような感覚でした。SOREで曲を作っていた時も、映画のために音楽を作るようなイメージで取り組んでいましたし。
ーどんな映画が好きですか?
黒澤明、ヒッチコック、ポランスキーが好きですね。
その中でも特に黒澤明の作品で使われていた音楽からの影響は大きいです。
佐藤勝という作曲家がおり、50年代にゴジラの作曲もしていた人なのですが、1957年から前任者である早坂文雄に置き換わる形で、黒澤映画の作曲家になったんです。確か早川氏が病気になったからだと思いますが、そこから佐藤勝が黒澤明作品の専属作曲家になったんです。
『用心棒』、『椿三十郎』などの音楽からはとても影響を受けました。西洋の音楽を日本的な解釈でブレンドさせることに成功していたからです。西洋の楽器を使う中で、ハープシコードやバリトンサックスなどの特徴的な楽器も使い、そして突然日本の笛や太鼓が入ったりと、非常に面白いです。
ー何か日本のリスナーにお勧めしたいインドネシアのアーティストはいますか?
難しいですね!簡単には選べませんが、新世代では一番最初に紹介したDanillaですね。
非常に素晴らしいシンガーソングライターです。最後にリリースされたのは2017年にリリースされた2ndアルバム『Lintasan Waktu』ですが、彼女の音楽はとてもインドネシア的だと思います。Jazzの影響を受けているものの、その上で強いソングライティングをしていて、非常に予期できない音がするんです。
ちなみにDanillaの音楽ディレクターをやっているLafa Pratomoは私のアルバムでギターを弾いてくれているんですよ。ギタリストとしてもディレクターとしても作曲家としても、音楽的なエッジを持った素晴らしいアーティストです。
他にもインドネシアインディシーンの中心的な役割を果たしているWhite Shoes & The Couples Companyもいいですね。彼らもコンスタントにアウトプットをしていますね。
ー他におすすめのアーティストはいますか?
古いのでいくと、70-80年代のインドネシアポップシーンの代表選手であるYockie Soerjoprajogoですね。音楽シーンの中心となる土台を作った存在です。
Yockieはハードロックのバンドでキーボードを弾いており、Chrisyeと言う歌手の音楽ディレクターもやっていました。この頃の音楽のランドマークとなる音なので、ぜひ彼のアルバムを聴いて見てくださいね。
Yockieはソロアルバムも出して、タイトルが『Musik Saya Adalah Saya』なのですが、“My Music is Me”と言う意味で、とても力強いステートメントです。
そしてYockieと同じく70年代インドネシア音楽シーンを形作ったレジェンドであるGuruh Sukarnoputraですね。実はインドネシアの初代大統領であるスカルノの末っ子なんです。
彼の曲は非常にインドネシア的ですが、同じくとてもキャッチーで洗練されていました。曲を多く自身で書いていましたが、他のアーティストにアレンジをするなどのコラボもしていましたね。
先述のChrisyeと共演したこちらのアルバム『Guruh Gipsy』は有名で、バリガムランの要素を混ぜた名盤ロックアルバムです。
ー多くの面白いお話をありがとうございました!最後に、ソロ活動を始められてから海外での認知度も確実に高まっているところであるかと思いますが、日本など他の国と、国際的にやりたいことはありますか?
もちろんできる限りの可能性は広げていきたいです。
私のレーベルである〈Ivy League Music〉は、まだ国際的なアーティストの扱いと言う点から見ると小さいですが、国外アーティストをインドネシアのアーティストのコラボをさせたりしたいし、そして個人的には日本とも新しいことでもっと関わっていきたいと思っています。
ボーダーレスに音楽をやって 、どんな場所でも聴かれるような存在になっていきたいですね。今は繋がりの時代ですからね。今回このインタビューを日本のメディアであるDIGLE MAGAZINEさんがやってくれているように。
ーモンドさんは国外からのあらゆるオファーを待っていますと書いておきますね。
Yes, please!
ライタープロフィール
Yuki Lee
東京生まれ。60-70年代音楽を愛する父の元に育ち、ポップ、ロック、メタル、ジャズ、クラシック、ラテンを聴きあさる幼少期を過ごす。14歳でエレキベース、16歳でコントラバスを始め、ベーシスト藤原清登、谷克己氏に師事。
2013年よりサポートやセッションでの活動を本格化させ、2016年に初のリーダーバンド Fontana Folleを結成。
あわせてアジア各国の最先端の音楽をプロモートするグループ「アジアのポップスを聴き倒す会」を主宰。 2020年代だからこそ可能な最先端アジア音楽シーンを構築するため、ミュージシャン、ライター、ブロガー、フェス主催者のメンバーと共にイベント開催、通訳、インタビュー記事作成、アジア圏アーティストの来日アテンドなどを行う。TAG;
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